2019/04/12 20:31
清野とし子さん(民芸部・92歳)
御年92歳になるとし子さん。とし子さんの作るはけごは、オーソドックスな形だけれども素敵な配色と丁寧な仕事が特徴で、たくさんのはけごが並んでいても不思議と目立ちます。どなたかと会話していても「とし子さんは上手だから~」と言われる存在です。
そんなとし子さんですが、ご年齢のためしばらく民芸部でお見かけしていませんでした。なので今回はとし子さんにお会いしにご自宅にお伺いしました。
ご家族は仕事で出ていて、お一人だったとし子さん。綺麗な木材で作られた新しい玄関に腰掛けてお話しました。「ごめんな、お茶も出さずにこんなところで。身体が動かねくてよ」とおっしゃりながら、今川焼きを差し出すとし子さん。
「いやいや、こちらこそお邪魔してすいません。ぜーんぜんお気になさらずに!」と、ご年齢相応のお体ですが病気等の様子は見られずひと安心した私。
最近はどうですか、と訊ねると「なんにもしてね。冬もずーっと寝てた。はけごも作ってねんだ。手がプルプルしてよ、力も入んねんだ」。
やっぱりそうですよね、と思いました。はけご作りは細部を仕上げるときに引っ張る力が必要で、とし子さんのようにキチッと作る方は尚のこと必要だろうと。その大変さから、はけごを作らなくなるのはごくごく自然なことだと感じました。
ですが私の予想外だったのが、とし子さんがはけご作りを覚えたのはとの質問の答えが「70歳!」であったこと。
「70歳から覚えたからもう20年以上になる」、確かに20年以上のベテランですが、てっきり「子供の頃に~」というお答えが返ってくると勝手に思い込んでいたのです。ちょっぴり動揺した私。しかしお話を伺っていたく納得しました。
とし子さんが住んでいるのは朝日町の四ノ沢(しのさわ)という地区。名の通り四つの沢が流れています。今も四ノ沢を通る沢の水が最上川に注がれる様子が、地区の対岸から見られます。もともと四つ目の沢の近くに住んでいたとし子さんは「沢のかが(かかあ、お母さん)」と呼ばれていたそうです。
そんなとし子さんのご主人は36歳という若さで他界されました。土方(どかた、という呼称は差別用語とされますが朝日町で普通に使われていること、語り手が使っていること、また大変だけど大切な仕事をしてきたという矜持を含む表現であると聞いていて私が感じることからそのまま記載します)をしていましたが、扁桃腺が腫れている身体をおして働き続けたことが原因となってしまったそうです。
なのでとし子さんが家族を支えました。当時朝日町に大きなダムが建設されて、その経済効果は絶大だったようです。建設業が全盛期でした。とし子さんも土方を20年以上されました。縫製業(剣道の防具作り)の内職もしたそうです。
そうして働いてきたとし子さんは、時間ができたからと70歳で民芸部に入ってはけご作りを覚えました。「とし子さんのはけごは本当にきれいですね!という私に「んなことね。私なんてざっぱ(大雑把)でよ!」とおっしゃるとし子さん。そこに謙遜の雰囲気はないのです。
今のご自宅は生家とは別の場所に建っています。家を建て替えたことによって、古い道具類はなくなっていて、古いはけごもありませんでした。ですがその新しさ、が非常に印象深かったのです。ご自宅には電気屋の看板が掲げられていて、息子さんたちは各々手に職を持っています。「とし子さんの身内だけで家が建てられますね!」と言うととても嬉しそうに笑っていました。
力いっぱい家族を支えてきた、今は身体も小さくなったとし子さんと、きれいな板張りの立派な玄関に座って話していることに、心がきゅっとなる感慨を覚えました。
今とし子さんの作ったはけごはあります?と聞くと二個だけあると。あとはみんな、けてやった「くれてやった=あげた」。とし子さんのはけご、として届けられるのはあと二個だけか・・・とまたも感慨を覚えた私。
しかし!先日、東京でとし子さんのはけごが売れて、買ってくださった方も喜んでいて~と伝えると「また作るかあ」と嬉しそうにおっしゃったのです。
「でもほんと無理だけはしないでくださいね」。はけごを知っていただくことが作り手の喜び、意欲になるなんてこの上ない喜びですが、それがご老体に鞭打つ結果となっては何にもなりません。あくまでもとし子さんのペースで、と念を押させてもらいました。
「山の手仕事」としておじいちゃんおばあちゃんが作るはけごをご紹介していますが、きっと、小さな頃から藁細工が身近にあって自然と技術が身に付いていた、というバックグラウンドが一番イメージしやすく、私自身もそういったストーリーを探していたように思います。ですが今回とし子さんとお話して、考えを改めました。
当たり前だけど、人の数だけ人生があって、その人それぞれの過程ではけご作りと出会ってきたのだと。
そう思って見るはけごは今まで以上に愛おしく、これがずっと作り手と使い手を結ぶものになってくれたらいいなと強く感じました。そしてそういった道具がある暮らしって「豊か」と表現できるのではないかなと思いました。